はじまりも終わりもない手紙

以前付き合っていた彼のお母さんが亡くなったことを知った。数年ぶりにきたLINEは「久しぶり。何してる?」。あーはいはいこの手のやつね、と通知欄だけ見て、トーク画面も開かずに削除しようとした瞬間、続け様に送られてきた訃報に手が止まった。

何度か会ったことがあった。女手ひとつで彼を育てた、快活でよく笑って、周りを巻き込む力のある人。でもほんとうは心配性で繊細さを隠していて、彼の近況をこっそりわたしに聞いてきたような人。わたしから別れを告げたのに「ごめんなさいね」と手を握って謝ってきた人。 

癌だったという。最後に病室で撮られた写真は、わたしが記憶しているよりずっと細い体で、あらゆるところから管が伸びていた。看護師だった彼女は、こうなる前から自分の病気がどんなものか、どれだけ進行しているか分かっていただろう。それでも気丈に振る舞っていたことが容易く想像できて、いっそう悲しくなる。

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新しい生活を送っている君に連絡するつもりは正直なかった、と彼は言った。いわゆる円満な別れ方をしなかったわたしたちにとっては、その言葉がしっくりくる。それでも彼がわたしに連絡を寄越したのは、ひとつの手紙があったからだ。

友人が多くいた彼のお母さんは、亡くなる前にそのひとりひとりに手紙を書いていた。あとで貰って場所をとらないように、と一筆箋にしたためたという気遣いはあんまりにも彼女らしい。何十枚も書かれたそれらを、彼はできる限り手渡しで、遠方にいる人には郵送しているらしい。そのマメさは、紛いもなくお母さんの面影を感じさせる。手紙の宛先は、学生時代から付き合いのある数十年来の友人や勤務先の同僚にはじまり、スナックで仲良くなったLINEのIDしか知らない人まで様々。悲しみに暮れるのと同じくらい、それらを確認するのは途方もなかったという。

そこに、わたしの名前もあった。

彼と付き合った期間は1年に満たなかったし、 その中でお母さんに会ったのは限られたときだった。もう忘れられていたって当然。それでも、彼女の人生の中にわたしはきちんと存在していた。名前はその当時の愛称にわざと変えられていて、目の奥がツンとする。

弱々しい筆跡だった。インクの濃さなどは関係なく、明らかに震えてかすれた字。もうこの数ヶ月はペンを握ることさえままならなかったようで、そのあとに言葉はなかった。わたしの名前だけが書かれた一筆箋は何行も場所を持て余していたけれど、わたしはこんなに尊い手紙に出会ったことはなかった。隅にアネモネのイラストがプリントされていた。わたしが一番好きな花だということを知っていたのだろうか。

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この話をされたときは、あまりに唐突なことでうまく噛み砕けませんでした。むしろ、意図的に目を逸らしていた気さえします。数日経ったいま、ようやく色々な感情が追いついてきて、ときに胸を締め付けられるようになりました。自分の両親を失ったか如く、感情を揺さぶられました。ただ、彼のお母さんがわたしに何か言葉を遺そうとしてくれた。そのことからは絶対に目を背けまいと思い、こうやってここに自分の気持ちを書くことにしました。

命が限りあるものだなんて、当たり前すぎて忘れてしまうほど当たり前なこと。それにふっと立ち返らせれて、自分が後悔ないように生きているのか、考えなければと思いました。誰かを失ってそんなふうに思うなんて、なんだか都合のいい話のような気もしますが、きっと彼のお母さんなら許してくれるんじゃないかなって。最後まで勝手で、ごめんなさい。でも、そういう機会を、あの一筆箋の空白が与えてくれたんだと思うんです。

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手紙を締めくくらないでいてくれて、ありがとうございました。

きちんと気持ちは受け取りました。続きはまた、どこかで。

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