それでも愛されたいよ

「愛されたいならば愛しなさい」みたいな言葉を見るたびに、「いや分かってるよ分かってる分かってるけどさあ…」と心の中で繰り返す人生。

他人のあれやこれやを受け止め噛み砕き包み込む器すらないのに、誰かと幸せになろうなんておこがましいのだろう。自分のことすら賄えない自分が情けなくてかわいそうで、惨めだ。と、同時に寝たら忘れてしまうくらいの浅い絶望感に浸る。

一瞬の喜びや楽しみを紡ぎあわせ隙間をつくらず、奥底に眠る問題を見ないフリを続ける。それではよくないと分かっている。でも、こうするより手段を知らない。覚悟も根性もない。誰かに嫌われたっていい、私は私だ、と吠えるほどの情熱も生命力もない。そうやって逃げてきた。ツケはいつも心に背負っている。

定職に就いているし、今のところ雨風をしのげる家もある。わずかながら蓄えもあるし、幸い両親も健在で頼りどころはある。それでも、わたしは毎日その日暮らしをしている感覚がある。日常は些細なことで音をたてずに崩れることを知っているし、いつだってそれと隣り合わせだからだ。

 

愛なんて、形はないじゃないですか。結局のところ、相手が感じることで成立するもの。どんなに自分が愛だと思っていても、相手には恐怖であったり畏怖であったりマヤカシにすぎなかったりで、ギブギブギブギブギブしててもテイクされないことなんてザラで。あ〜全然伝わってねえ〜、ってこと、めっちゃありません?

 

支離滅裂ですね。これでも一応編集してるのウケませんか?自分のこととなると、しかもダウナーだと、起承転結もあったもんじゃないですよ。いつか丁寧にnote書くためにも、ちゃんと精神が安定させたいです。

 

つまりはね、わたしは君に愛されたい。このブログを読んでくれている、わたしのツイッターをフォローしていてくれるすべての人に、なんならご両親にまで好かれたい。他人に嫌われることに敏感で怯えているくせに、それでも愛されたいよ、やっぱりさ。人間くさいでしょう。

 

愛について疑う余地がないほどに愛し愛される人間になるには、3回死んでも足りなさそうです。なむ

 

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