昨日より幸せな今日へ

なにも考えたくないな、と思ってゴーヤチャンプルーをつくりだす午後11時。そのくせ、切ったゴーヤをまな板からバラバラ落とすし、フライパンはうまく振れない。なんのために、誰のために、もはやどうしてつくったかも分からない。ゴーヤチャンプルーもどきが皿の上で湯気を立てているのを眺めたとき、もう0時をこえていた。タッパーに入れ替えるのも面倒くさく、そのままラップをかけて冷蔵庫にしまったのが昨日の話。

うだるような暑さが続いてますが、みなさんどうですか。わたしはといえば、うだっています。3月生まれに、夏を好きになれ、なんて無理な話なんですよ。

転職して1年半が経って、実家を出てからももうすぐ1年半。仕事も暮らしも、色々考えなくてはいけない局面に立たされています。

 

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明るい空に浮かぶ花火も、悪くないけれど。

わたしは「いつかの自分より幸せ」じゃなくて「一番とびきり幸せ」になるため、毎日を生きなくちゃなと思うんです。正確には、「前の日よりちょっとずつ幸せ」でありたい。

何か嫌なことがあるたびに「でもあのときよりはマシだよ」って、誤魔化すのは簡単だけれどのちのちボロが出る。ボロというか、「なにやっているんだろう」みたいな、虚無感にワッと襲われる。

上を見てもキリはないし、高望みはしない。かといって下を見てもキリはないし、わざわざ落ちぶれにいくことはない。自分を保つのって、ほんとうに難しいと思う。わたしは毎日を意味を持たせすぎているのかな、もっとなにも考えずに過ごせばいいのかな。フッと泣きたくなるのは、こんなことに思慮を巡らせているときが多い。

「このままじゃダメだ」という気持ちと、変化を恐れる体のバランスがうまくとれない。今までだって、変わるために何度だって決断して、はじめてきたじゃないか。なんだってできることは、いつでも自分自信で証明してきたはず、なのに。

 

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地が暗ければ暗いほど、光は明るく見える。

愛って、自信に直結すると思ってるんです。自分で自分を愛することも、他者を愛することも他者から愛されることも。愛って目に見える形にはならないけれど、行動や言葉や眼差しや環境や、色んなところに現れて。だから、とんでもない愛を目の当たりするたびに、愕然とする。だって、そこにはわたしが知らない確固たる自信が基盤としてあるんだから。

自信のある人が愛されるのか、愛される人が自信をつけるのか。愛されるために自信をつけるのか、自信をつけるために愛するのか。ねえ?

 

8月に入ってようやく1週間。

まだまだ夏は長いけれど、どうかみんなご安全にね。