健康で文化的な生活

6月はよく映画を観て、本を読んだ。

と、言っても映画は「 ワンダー」「万引き家族」「帝一の國」「百円の恋」の4本、本は角田光代窪美澄山本文緒をそれぞれ1冊。

どれもこれも私の好みであり、「嗚呼これこれ」と思わずその喜びを強く噛み締めた。

 

映画とか本とかそういう類のものを楽しめるというのはもうそれだけで非常に恵まれているものだ、と思う。それは金銭的な余裕、肉体的な余裕、精神的な余裕がないと成り立たないから。

分かったようなことを書いているけれど、私がその当たり前すぎる事実に気づけたのはほんのつい最近のこと。

 

昨年の秋、うつ症状で前職を辞めたあと、時間はこれでもかとあった。なんの制限もない毎日、私を全力で気遣っては「次は急がなくていいんだから」と言う家族に囲まれた実家。環境は万全。

前職に就いていた頃、私はすっかり娯楽としての映画鑑賞と読書から離れていた。先に挙げた三つの余裕がすっかり欠如していたからだ。

そんな仕事が手から離れた私の手元には、プライムビデオと買ったものの読まずに積み上げられた書籍。

 

「やっとだ」と思い、それらに手をつけたのも束の間、まあ少しも頭に入ってこない。

映画は登場人物が複数人でてこようものならどれが誰か把握するので精一杯、ストーリーなんて理解できないうちにエンドロール。

本は、数行読んだあと数行抜け落ちる。戻ってはまた戻りを繰り返し、しおりを何度も挟み直して、読み切ることは最早苦痛だった。

「うつ 映画 観られない」「うつ 本 読めない」と検索し、私は検索結果に納得しながらもひどい絶望に陥ったものだ。

 

そういえば、音楽もあまり聴かなかった。聴いていたのは、専らYouTubeで焚き火や川のせせらぎを数時間。そのことを友人に話したら「なにそれ、病んでるじゃん」とケタケタと笑われた。そうだ、私はしっかり病んでいた。

 

ダラダラと書いてしまった。が、こうやって文章をダラダラと書けるのも、健康な証拠だと思う。そして、もしこの駄文を最後まで読んでくれた人がいるならば、きっとあなたも気づいていないだけでとても幸せなのです。

 

今日は小川糸の「かたつむり食堂」をもう少し読み進めて、眠ります。おやすみなさい。

言葉では伝わらないことばかりで

映画「恋は雨上がりのように」を観た。元々原作であるコミックを1巻が出た当初から愛読していたけれど、どうも間延び感が否めず、9巻で買うのをやめたところ、いつの間にか映画化が決まっていた。なんとなく合点がいく。

 

「あの人気漫画がついに実写映画化!」なのにコケることが多いのは、そもそも色があって絵があって世界観が確立されているものをリアリティに無理矢理落とし込もうとするからだと思う。お目目パッチリで描かれている主人公を重い一重の人が演じたら、そりゃあ違うじゃん?

そんな違和感からスタートして、ときには完結していなかったり、何十巻にもわたるストーリーをひとつに紡いだ違和感が加われば、星ひとつだって無理はない。

 

それに比べて「あの人気小説がついに実写映画化!」のほうが幾分コケずに済み、ときに高く評価されるのは、文字だけで構成されるものをリアリティに自然と落とし込むからなんだろうなあ、と。

小説は読み手に人物像や音や情景を想像させるものだから、それらがドンと目の前に現れたとき、喜びを感じるんだと思う。

 

そういう邦画は映画通からしたら「スピード感がない」「迫力がない」云々言われるのかもしれないが、わたしはそういう機微を拾い取って表現してくれる邦画が好きですよ。

ちなみに河瀬直美監督の「光」、西川美和監督の「永い言い訳」が好きで好きで仕方ない。

 

ドカンドカンと派手なのはとてもいい。小説もドラマも映画も音楽も絵も、気持ちがいいものだ。機微を拾い上げる邦画が好き、と言っておきながらエクスペンダブルズ4の公開を今か今かと期待している自分もいる。

 

ただ、当たり前すぎて当たり前なのかすら分からなくなってしまう日常を描くことが、実はいちばん難しいんじゃないか。

派手なのが簡単だというわけではない。ただ、ありふれたことで人を惹きつけるというのは、思っているよりもずっと難しい。

 

ツイッターで色白で大きなおっぱいを載せたらフォロワーは増えても、白くて炊きたてほかほかの新米を載せてもフォロワーは増えない。

 

欲しいのは、いつだって非日常。

 

ところで、「恋は雨上がりのように」の店長役は堤真一がよかったなあ。小松菜奈は最高に可愛くて、部屋着が最高にえっちでした。

卑しいのは、どっち?

定期的にツイートしているけれど、「相手の好意を素直に享受できる」というのは、最早それだけで才能だと思う。この言葉をパッと見て共感してくれる人と疑問に思う人がいると思うけれど、前者とはいい友達になれる。


そもそも、相手の好意を素直に享受できる人はそのことを特別に思っていない。だから、自覚もない。それでいい。捻くれているわたしは、そんな人たちが心底羨ましい。こころが荒んでいるときは、心底憎たらしい。「もう少し有り難いと思ってもいいんじゃないか?」とすら思う。


自分が相手からの好意を素直に享受できない分、自分が誰かに向ける好意を神格化してほしいなんて、ワガママ。でも、そうでもしないと自分のこころの捻くれがきれいな形に戻ってくれないんだもん、ねぇ。


自分の欠損を誰かや何かで補おうなんて、烏滸がましい。


給料日の花金に書くような内容じゃなかったなあ、と思いつつ、窓から流れ入る涼しい風を感じています。こんな落ち着いた気候と落ち着いた精神が、しばらくは続きますように。

病名がないという病気

いつも通り会社に向かうために、起きたのはいつもより少し遅い時間で。眠ったのはそこまで遅くなかったけれど、一度早い時間に目が覚めてからは30分ごとに目が覚めてしまっていて、あまり良い寝起きじゃなかった。けれど、なんてことない平日のいちにち。曇りがちな空が生む憂鬱な気が部屋にまで流れ込んでいたけど、それくらい。


「あ、行きたくない」と思ったが最後、堰を切ったように涙がボトボトと溢れて止まらなくなった。上手に呼吸もできない。息を吐こうと思えば涙が同じように吐かれる。


今日、会社を休んだ。正確には、行けなかった。多分4ヶ月前に転職して2回目か3回目。ほんとうに社会人を全うできない。転職先はわりと遅刻早退にフラットで、欠勤の連絡もメールひとつで済む。その環境に甘えている自分が腹立たしくて、情けなくて、でもどうしようもなくて。


自分の症状を検索すれば、いくつかの病名がヒットする。うつや気分変調症のたぐい。でも、そのどれもが当てはまっていて当てはまっていない。ただわかっていることは、前職のときのように明らかな原因があって引き起こされた気持ちより、いま抱いている気持ちのほうがずっと厄介だということ。きっと病院に行ってもあのときと同じ薬を処方されるだろうけれど。


「じゃあ、仕方ないね」と思われるための理由が欲しい。わたしのこの不安や苦しみや行き場のない言葉にし難い感情がきちんと救われて報われるだけの明確な答えが欲しい。


毎日はそんなわたしを御構い無しにびゅんびゅんと過ぎていく。眠って起きたら朝がくる。当たり前すぎて当たり前なことも忘れてしまうくらい、毎日は普遍的だ。あなたの彼女が酔った勢いで元彼に連絡しても、あなたの彼氏が他の女の子の自撮りにいいねしても、だ。


「大人になってからのほうが楽しいことがあるよ!」と、わたしは昔のわたしに胸を張って言えるだろうか。

それが嫌いなんじゃない、それらを構成する全てが嫌いなんだ

突然のブログ。これは誰かや何かを想起しているわけではなく、ただただ思ったことで、140字じゃ収まりきらないフラストレーションの捌け口です。読みやすさやデザインなどどうでもいい!と思った結果のはてなブログ、お世話になります。

 

突然のブログで突然の告白だけれど、わたしは超頑固。「自分を変える」ということにひどく抵抗があるし、柔軟な人を見るたびに尊敬と疎ましさでいっぱいになる。それは自分の(わずか24年間だけれど)築いてきた思考や感性を信じているからだ。好きとか嫌いとか正しいとか間違っているとかではなく、信じている。これがわたしだ、という確固たる思いがある。ナルシスト万歳。

 

そんなわたし、何かあったときにすぐに「直す」「変わる」という人がどうも信用ならない。それらの発言をする人は非常に前向きで、良かれと思って、もしくはその場をどうにか収束させようとしているのだろうけれど、わたしは不信感を抱いてしまう。

 

元々存在し得なかった概念を存在させること、定着させることが、どれだけ難しいか、彼らはほんとうに分かっていない。習慣化されたものを崩していくということ、これまでなかったものを日常に取り込むということ、それがどれだけ容易いように見えてできないものか。

 

例え話をひとつ。わたしは"フラッシュモブ"が苦手だ。どこが苦手かと言われると難しいが、とにかく苦手だ。無論、フラッシュモブを楽しそうにする人も苦手だ。もっと詳しく述べるのなら、フラッシュモブを良しとするその人のバックグラウンドやフラッシュモブを良しとするその人の友人らにも苦手意識を持ってしまう。もう関わることはないだろう、と。フラッシュモブも、それを楽しむ人も何も悪かない。ただわたしの中に「フラッシュモブを良しとする概念」がそもそも無いのだ。その概念が無いというのに、明日からフラッシュモブを良しとすることも、良しとする人と交わるなんて無理だ。

 

だってほら、あなたの家には「直すよ」「変わるよ」と言ってくれたはずなのに、靴下は裏返しのまま洗濯カゴに放り投げてあったり、ほんの少しだけ中身の残ったペットボトルが冷蔵庫に鎮座しているでしょう?

 

口だけ達者で甘ったれてる人間がこの世で一番嫌いです。